311のあの日

10年前の3月11日、東京で東日本大震災を体験しました。

横浜F・マリノスから川崎フロンターレへの移籍で、当時暮らしていた横浜市中区本牧から東京都稲城市若葉台に住まいを移すことになったのが2011年3月7日。新居に引っ越したばかりの、ほんの数日後の出来事でした。夫は麻生グラウンドで練習中。新しい住まいは賃貸マンションの14階。

突如、何かに突き上げられるような爆発的衝撃音と共に、頬の辺りを上下小刻みに振るわす強烈な縦揺れが襲った。備え付けの書籍棚にやっと並べ終えたばかりの分厚い本が、雪崩のように頭上に崩れ落ちて来たのを機に、振動なのか、自らの震えなのかも分からないほど鼓動と身震いが激しくなっていく。「鍵、鍵、鍵を。」

脳内ではちゃんとこう考えている。しかし、手がガタガタと震えて鞄の中にしまってあるはずの鍵1つが探せない、見つけ出せない。歩けないのではなく足が竦んで1歩も前に動かすことが出来ない。

生まれて初めて抱いた「この世の終わり」「死ぬかもしれない」という感覚。

家中に豪快に鳴り響き続ける甲高い破壊音。手で壁を伝い、必死で寝室からリビングの方まで身体を斜めに傾けて歩きながら辿り着くと、目の前に現れたのは、昨日箱から出したばかりの食器や電球が既に破片となり無惨に散財されている様。まだがらんとしている段ボールだらけのフローリングスペースの隅で、体重の軽い愛犬2匹が、床の上をシーソーのように大きく左右に滑らされるようにしながら恐怖にさらされている。

テレビ台が倒れる、テレビが落ちる、食器棚が倒れる、ああ危ない!

床に這いつくばりながら無我夢中で2匹を胸元に手繰り寄せ、両手に抱えたまま直ぐ様押し入れの下に潜り込む。

当時るしあ(ダックス)には吠え癖があったが、この衝撃から一切の声を失い、臆病なチト(チワワ)は視点が一点に固まったまま猛烈な震えから硬直、動けなくなっている。

何分経ったのだろうか。長い揺れはやっとおさまったが動悸は起こったまま。

冷静になろう、冷静に、と繰り返し自分の胸に手を置いて心を落ち着かせ、安全を確認してから2匹を連れて重い玄関の扉を開けると、まるでスモッグがかかったようなグレーの空の下には異様な光景が広がっていた。

地獄絵図。人々の悲鳴、子供たちの泣き声、誰かを呼ぶ大声で溢れ返っている。

同じ14階に足の不自由なお母さんがいらっしゃり、ご家族3人で避難するところに鉢合わせ。このお母さんをここから助け出さなければと声をかけ、無心でお母さんをおぶって階段で14階下まで降りる。あんなに力を振り絞り出せたのは生涯初めてのことで、その後1ヶ月以上身体が痛かった。この行動は咄嗟で自分でもよく覚えていない。

3月の曇り空、まだまだ寒い日だった。マンション下の建物から離れた土手の草村にヘナヘナと座り込んだ状態で何度も夫に連絡を取ろうとしたが、携帯電話が繋がらない。目の前の現実に何が起こってこれからどうなるのか、とにかく不安しか無い。視界に絶えず飛び込んでくるのは右往左往し騒めく人々の群れ。

1時間半ほど経った頃、道路を挟んで丁度目の前にあるガソリンスタンドの店員さんが「お台場が燃えてる!」と叫び出した。

インターネットが繋がらない、映像が見られない私には時を刻む毎に募る恐怖の中で、震えの止まらない愛犬2匹を抱きしめることしか出来なく、何をどうして良いかが全く分からなかった。

時間を置いて何度も試みてやっとのことで夫と連絡がとれ無事を確認し合えた時は、あまりにホッとし過ぎて大泣きした。

その後、停電や大きな余震が続き、荒れてしまった自宅に戻れず、避難した車の中、辺りが既に暗くなってから初めて東北の映像を見て、そこからはもう生きて来て味わったことのない感情。涙の止まらない日々を過ごした。

涙は決して枯れるものではないということを知った。

Jリーグは中断に入ったが余震が激しく、鳴り止まぬ緊急地震速報音。夫と離れる1人の時間が怖くてたまらない。少しでも不安を和らげようと近隣に住む選手家族(中村憲剛選手ファミリー等)で声を掛け合う。皆で一緒に過ごす時間を増やし、水や食べ物、日用品を分け合ったり、連絡を密に取りながら、暫くの間、助け合いの生活を送った。

東京でもこうだった。震源に近い方々はどんなに怖かったでしょう。どんなに辛かったでしょう。どんなに苦しかったでしょう。

あの日から生き方も考え方も何もかも全てが変わった。

この日が来る度、命について、生きるについて、自分のできることは何かを考える。

サッカーダイジェストテクニカルからオファーをいただき、連載を始めたばかりの頃だった。当時の記録が残っている。

いつの日も変わることなく燦々と背中にふり注いでくれる太陽の光がとてつもなくあたたかく感じた。

人参のオレンジ色が「どうか元気を出して」と励ましてくれているような気がして写真を撮りながら自然と涙が頬を伝っていた。

この時、慰めて貰ったのは私の方だった気がしています。

祈りを捧げます。