【J2通算300試合、22年連続得点達成の山瀬功治、「すべてやり切った形で終わりたい」】
J2愛媛FCのMF山瀬功治が、10月16日に敵地で行われたFC琉球との明治安田J2第34節で、22年連続得点とJ2通算300試合出場という、ふたつの記録を達成した。
0-0の後半36分から出場した山瀬は、この6分後に今季初得点となる決勝ゴールを蹴り込んだ。自陣から逆襲を仕掛け、クリアボールを拾った山瀬が前方のFW藤本佳希に縦パス。藤本が豪胆に左から運んで最終パスを送ると、全速力でペナルティーエリアに入ってきた山瀬が左足で合わせ、ゴール右隅に沈めた。
その瞬間、少数だが沖縄まで支援に訪れたサポーターの元へガッツポーズをつくりながら駆け寄り、喜びを分かち合った。
22年連続弾は、24年連続得点のMF遠藤保仁(J2ジュビロ磐田)に次いで歴代2位の偉業だ。2000年にJ2コンサドーレ札幌(当時)でプロデビューしてから複数のクラブに移籍。J1の浦和レッズ、横浜F・マリノス、川崎フロンターレを経てJ2の京都サンガF.C.、アビスパ福岡、愛媛でプレーしてきた。
「今年も得点できて正直ほっとしています。毎年取りたい気持ちはあるけど、記録更新を目的にやっているわけではないし、結果として取れたらいいと思っている。あのシュートはきちんとミートできなかったのですが、いいコースに飛んでくれました。22年連続ともなると、運もなければ達成できませんね」
9月22日に40歳となった今季は第34節までに先発が7、途中出場が12試合。34試合終了時点で先発10、交代出場15だった昨季とほぼ同じ割合でピッチに立っている。「目標にしているフル出場ができないのは悔しいが、この年でバリバリやれないのは当たり前だと理解している」との言葉は、今できることだけに全身全霊を傾けている証しでもある。
同い年の現役Jリーガーは、浦和の阿部勇樹や塩田仁史、FC今治の駒野友一くらいになった。
4クラブで12年プレーしたJ1は通算288試合、4クラブで10年目を迎えたJ2は通算300試合、計588試合に出場。この数字をJ1に当てはめると5位、J2なら首位になるのだから立派だ。
02年8月に右、04年9月に左ひざ前十字じん帯を断裂し、06年4月には椎間板ヘルニアの手術をするなど、若い頃は大けがを繰り返したほか、極度の腰痛にも悩み続けた。それでいてこれだけの数字を残せるのは、サッカーへの情熱が人並み外れているということだ。
在籍34選手の中でチーム最年長ながら、コンスタントに出番があるのは練習で高い水準のパフォーマンスを発揮しているからにほかならない。山瀬は「プロとして、やるべきことにひたすら取り組んでいるだけですが、その方向性が間違っていないからこそ起用してもらっていると思う。毎日の練習が試合と同じで、どれだけのものを残せるかが勝負です」と説明した。
連続シーズン得点記録が、歴代上位になってからは周りが楽しみにしてくれ、ゴールを取れば自分のことのように喜んでくれるので、開幕が近づいてくると意識はするそうだ。
山瀬は節目のゴールも多い。浦和時代、J1でのチーム500点目と550点目を記録し、07年8月22日のカメルーンとの国際親善試合では、日本代表の国際Aマッチ通算900点目をマークしている。
浦和在籍時は23、24歳という若さだったが、当時からサッカー道を追究する姿勢は半端ではなく、ことサッカーに関しては絶対に妥協しないし、これと決めたらトコトン突き進むのが山瀬という男だ。
『武士道と云うは死ぬことと見つけたり』
これは江戸時代の書物、「葉隠」の記述の中で最も著名なもので、いつも死ぬつもりで行動すれば、武道に自由を得て家職をまっとうできる、という意味だ。山瀬はここ最近、この一節を引き合いに出し「引退が訪れた時、後悔するようなサッカーへの取り組みだけはしたくない。すべてやり切った形で終わりたいんです」ときっぱり口にする。
現役である限り、プロフットボーラーとして一日一日が真剣勝負だ。不惑の求道者はスパイクを脱ぐその日まで、ひたすらサッカー道に突き進む覚悟を決めている。
昨年の河野さんの記事
【「今の彼が一番好きです」偉業を達成した山瀬功治と、鉄人を支えた姉さん女房の物語 サッカーダイジェスト 2020年09月25日 河野 正】
https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=79654
J2#愛媛FCのMF#山瀬功治が、第16節のFC町田ゼルビア戦(9月2日・ニンジニア)で達成した21年連続ゴールは、遠藤保仁(ガンバ大阪)の22年に続く輝かしい金字塔だ。J1に限れば、小笠原満男(元鹿島アントラーズ)の17年が最長。当時J2のコンサドーレ札幌でプロのキャリアをスタートさせた2000年から、毎年得点を重ねてきたことになる。
前半のアディショナルタイム。横谷繁の出色の縦パスで守備ラインを切り裂き、預かった丹羽詩温が右からグラウンダーの最終パスを配給すると、左足でゴール左隅に同点弾を蹴り込んだ。「連続得点は目標のひとつなので更新できて良かった」と喜んだ。
得点を決めた山瀬は一目散にゴール裏へ駆け寄り、誇らしげに左胸のクラブエンブレムをつまんでサポーターに感謝の気持ちを伝えた。愛媛に加入した昨季、初得点を挙げた敵地での大宮アルディージャ戦でも真っ先に遠方から集まった支援者の元へ疾走。こういう情景は京都サンガ時代から顕著になり、アビスパ福岡でも数多く見られた。
「現役を続けたいけど、叶わないかもしれないという状況で愛媛や福岡が機会を与えてくれた。その恩が身に染みてありがたいんです。年齢的にいつ引退するか分からないけど、今はクラブとサポーターに感謝しながらプレーしています」
福岡との契約満了後、所属先が一向に決まらず、愛媛に合流したのは昨年1月8日のチーム始動日から1か月遅れの2月6日だ。京都から福岡への移籍にしても、契約合意したのは始動日前日の朝だった。
9月22日で39歳になった。年齢を重ねてプレーの幅が変化したように、人としての物腰や視野、心情なども大きく変わっていった。
浦和レッズに在籍した2年間、山瀬の出場した試合をすべて観たが、得点を決めて観客と喜び合うことはまずなかった。初優勝した03年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で先制ヘッドを決めても、04年の東京ヴェルディ戦でハットトリックを完成させても同僚と抱擁しただけだ。
才気煥発な攻撃的MFとして脚光を浴びていた頃は、札幌→浦和→横浜F・マリノス→川崎フロンターレというJ1の強豪クラブを渡り歩いた。だが力の衰えは万人に共通した宿命。山瀬はこれを潔く受け入れカテゴリーが落ちても、クラブの規模やチームの実力が劣っても、対価には目もくれずプレーできる環境だけをひたすら求めた。
武骨で不器用だったせいか、若い頃は公私の間に一線を引いたが、移籍と経験によって内向的な一面も変化したようだ。「サポーターと盛り上がりたいという思いがより強くなったのは(4年間在籍した)京都の終わり頃からです。同じマンションや地域の人たちと交流するうちに距離が縮まり、サポーターが身近な存在になったんです」としみじみ語る。
9月23日のアルビレックス新潟戦でJ1、J2通算551試合出場。戦歴から故障の少ない鉄人を連想するが、短期間に両ひざの前十字じん帯を断裂している。札幌時代の02年8月に右、浦和では04年9月に左、いずれも復帰までに約8か月かかった。03年6月には右ひざ半月板のオペ。横浜でも腰の激痛に悩まされ、06年4月に椎間板ヘルニアの手術をした。
そんな山瀬を支え続けてきたのが、4つ年上の理恵子夫人だ。
2度目の前十字じん帯断裂をきっかけに、Jリーグやプロ野球など一流選手の栄養・食事指導で著名な管理栄養士の川端理香さんと個人契約し、リハビリ食の基礎や怪我を回復させる栄養学を身に付けた。今では複数の媒体で料理レシピを紹介し、講習会や講演会などにも引っ張りだこの料理研究家となった。
さらにアロマテラピーインストラクターやスポーツアロマトレーナーという顔も持つ。横浜に移籍した05年夏、夫を襲った腰痛は数か月後に歩けなくなるほど悪化。理恵子さんは矢も楯もたまらずアロマに救いを求め、栄養学の時のように猛勉強した。精油といって植物から抽出した天然素材の芳香物質を使ったマッサージをはじめ、嗅覚や呼気からも成分が吸収される全身トリートメントなど、さまざまな施術に取り組んだ。
「浦和に来た年は札幌時代のプレーが戻らず、アテネ五輪代表に入れるか夫は毎日悩んでいました。彼の苦悩は私の苦悩となり、精神的に疲弊してしまいました。あの時を思えば食やアロマを学んだ苦労はなんでもありません。とにかく夫のために、という思いだけでした」
19歳の山瀬と出会って19年目。貧しさこそなかったが、これだけ辛苦をともにしてきたのだから糟糠の妻、という言葉が似つかわしい。
姉さん女房は「選手としていい時期も見てきましたが、恩義や感謝の気持ちなど人間味がすごく増し、人として成長した今の彼が一番好きです」と情愛たっぷりに話した。
01年のJリーグ新人王から19年が経過した。元日本代表は「持っているものをすべて使い果たし、一日一日を大切に過ごしてやり切ったと言える選手生活を送りたい」と昔から変わらぬサッカーへの誠実さを示すと、「選手としての山瀬功治は、理恵子とふたりで作り上げたものです。今もやれているのは彼女のおかげ、感謝しかありません」と、金の草鞋を履いても2度と探せぬ連れ合いに謝辞を述べた。
2020年09月25日 サッカーダイジェスト