初めてメディア取材を受けたのは2005年。管理栄養士、川端理香先生の書籍、怪我回復食について。川端先生との対談方式でした。
●川端理香先生
(管理栄養士/プロスポーツ栄養士)
経歴
昭和女子大学短期大学部食物科学科 卒業
栄養士免許取得
筑波大学科目履修生
運動生理学、生化学等を学ぶ
昭和女子大学家政学部生活科学科 卒業
管理栄養士免許取得
東京大学農学部分析化学研究室 研究生
その他、東京大学(駒場)体育科にて、体力測定・データ処理等の補助をしながら、サッカーなどの競技の特性を学ぶ。
WATSONIA(ワトソニア)代表。日本オリンピック委員会強化スタッフ、チーフ管理栄養士として2004年アテネオリンピックでは水泳の北島康介選手や全日本女子バレーボールチームを、2008年北京オリンピックでは全日本男子バレーボールチームをサポート。浦和レッズや東京ヴェルディ1969などのJリーグサッカーチームや、個人選手の栄養・食事指導のほか、「カラダが喜ぶ毎日ごはん(エクサボディ)」「10日間カンタンバランスメニュー(エクサボディ)」「勝てるカラダをつくる!10代スポーツ選手の栄養と食事(大泉書店)」など書籍の監修、食育をテーマに学校や地域での講演・セミナーも行う。現在、東日本大震災復興支援の一環として「部活をする子どもたちを応援しようプロジェクト」で協力をよびかけている。 公式ブログ[Happy Foods]
その後、2009年に日刊スポーツさんでコラーゲンスープについての取材を受けました。この時は、クコの実や松の実を入れた骨つき肉と牛スジのスープを作りました。
栄養価抜群で抗酸化作用のあるスプラウトを用いたり、生野菜(大葉、サラダほうれん草、にら、人参)を細切りに。湯葉で巻きます。湯葉は優れた栄養食品です。
レバーとにんじんの煮込み。レバーには体を温める作用が。脂肪も少なく足腰のだるさを軽減。玉ねぎ、にんにくをみじん切りにし、トマトもみじん切り。人参はスティック状に切ります。鍋にそれぞれを炒め、赤ワインで煮込みます。
タウリンが豊富なあさりは様々な料理に使いました。アスパラギン酸も摂取。
関節ケアにはネバネバ食品を用います。朝食の納豆はこんな感じでひと工夫。腰に良いとされるエビをいれてみたり、おくらをいれてみたり。鰹節も◎です。
アーモンドがポイント。血流アップに欠かせないビタミンEが豊富。かぼちゃにも活性酸素を除去し、身体を温める効果が。
エビ、イカ、タコは、高タンパク低カロリー。リハビリ食で頻繁に摂取。ネギにも身体を温める作用があります。
ラムひき肉、豚ひき肉、にんにく、パセリ、パプリカ、玉ねぎ、セージ、クミン、フェンネルシード、塩胡椒。カルニチンが豊富なラム肉で体脂肪の蓄積を予防。基礎代謝量のアップを。フェンネルは痩身効果が。減量期、リハビリ期に。
濃い目のハーブティー(カモミール、レモンバームなど)を入れ、蜂蜜と水溶性食物繊維が豊富な健康食材粉寒天を入れて混ぜます。ハーブを用いた手軽なヘルシーデザート。
絹豆腐のサラダ。アボカド、トマト、ブロッコリー、サラダほうれん草、ナッツ。オイルは抗炎症作用のあるオメガ3脂肪酸のフラックスシードオイルも用いて。
2008年頃からでしょうか。怪我からの復帰食や食事管理について、アドバイスを求められることが多くなりました。2010年からサッカーダイジェストテクニカルにて栄養レシピの連載が開始。
他チームや他競技も含めると、本当にたくさんの選手ファミリーと関わる機会があったように思います。夫と同じ大怪我(靭帯断裂)をした家長昭博選手には、しっかりとした資料も作らせていただきました。
アドバイスを求められた時、我が家では夫婦で役割分担をしています。夫はリハビリの仕方や復帰までの身体の持っていき方、心身のケアについて。私は怪我回復の為の食事面でのケアを担っています。
プロ野球の矢野謙次選手にアドバイスさせていただいた時は、間に日刊スポーツの記者さんが入っていたこと、また異なるスポーツでの交流ということで、新聞記事への掲載も。
その様子が分かる記事が1つ残っていました。
http://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0218/jc_110218_5165257838.html
フロンターレとジャイアンツのキャンプは同じ、宮崎県総合運動公園で行われている。この日は、山瀬の滞在するホテルに矢野が訪ねてきてくれた。2人はかねてから親交がある。矢野が膝の怪我をしたときに、知り合いの新聞記者を通じて知り合ったのだ。山瀬がリハビリの仕方や栄養管理の仕方などを教えて以来、今でも家族ぐるみの付き合いが続いている。
「矢野さんの野球に対する考え方、プロスポーツ選手としての考え方などは、ジャンルは違えど、同じスポーツを舞台にして戦っている僕にとって、本当に参考になる」
この日も時間が経つのも忘れ、2人で話に没頭できた。矢野からはユニホームもプレゼントされて、必ず東京ドームに応援に行く、と山瀬。そして矢野にも、フロンターレの応援にぜひ来てほしい、と呼びかけている。
ここからは2004年当時の日記を振り返ります。
●記憶
2004年9月19日
https://yamaserieko.cookpad-blog.jp/articles/115983
何をしていても、何を考えていても、あとからあとから止めどなく涙が溢れてくる。ご飯も食べられず「泣く」という行為しか出来なかったのは何年ぶりのことだろう。当たり前の生活、当たり前の日常がどれだけ幸せだったかを、この年になって改めて痛感している。本当に大切なものは失った時に初めて気づくものなのだろうか。しかしながら時間が経つとやがてその傷は癒え、人は再び恩を忘れる。今の自分は、まるで出口の無い迷路にでも入り込んでしまったかのように先を見つけ出す事が出来ないでいる。再生しても、また大きな力によって破壊されることを恐れていたのだ。どんなに嘆いても、どんなに悔やんでも、今はもう元気にピッチを駆け回る夫の姿を見る事が出来ない。
実家から電話をかけてきた母がこう言った。
「生きていれば何とかなるものなのよ。あなた方は別に死んでしまった訳じゃない。与えられた状況の中で精一杯また頑張ればいい。どんなに悩んだって結局のところ何かが変わる訳じゃないのよ。そう考ると悩むのが馬鹿らしくなるものよ。」
大変な時期を乗り越えてきた母の、妙に説得力のある言葉だった。それ故、心の何処かでほんの少しだけ諭されたような自分がいて、受話器の生温さに「母」を感じながら思わず号泣してしまっていた。
病院に向かうタクシーを呼び寄せ、一足先に埼スタの関係者入り口で夫が来るのを震えながら待っていたあの時、自分の目の前で繰り広げられる急激な環境の変化に眩暈さえ覚えていた。これは夢なのかもしれないと、都合よく現実から逃れようとする自分の弱さと無力さを感じざるを得ない。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。重い扉の向こう側から、松葉杖で仁賀ドクターに支えられた夫がやってきた。そして、私の顔を見るなり「ゴメン・・」と蚊の鳴くなような声でひとこと言った。その目は、いつもに増して垂れ下がり、目尻の先の方が潤んでいるようにも見える。「ブチっていったの・・・?」この言葉をどんな思いで発したのかも覚えていない。ただ、靭帯が切れた時にブチっという鈍い音がするという知識だけが、経験上脳裏に焼きついていたのだろう。「うん、いった・・・ブチっていった・・・。」更に小さくなった功治の言葉を聴いた瞬間、意識が遠のいていくのが解った。
そこから病院へ向かうタクシーの中で、私は、他に人が乗っているのも忘れて号泣した。その間、功治がずっと横で謝りながら手を握っていてくれたような気がする。MRI中、30分以上1人で外で待っていた事も、ドクターの懸命な説明への聞き取りも、全て朦朧とした意識の中で「こなした」とでも言えばよいのだろうか。「靭帯切断したその日は痛くなくてその次の日が痛いんですよね?」と先生に尋ね「靭帯についてこんなに詳しい夫婦もなぁ(苦笑)」と言われたような、そんな断片的な記憶しか残っていない。
私は勝手に「功治はもう大丈夫」なんて思っていた。人生に「大丈夫」という言葉ほど不確かなものは無い。それを1度は経験しているはずの人間がこの有り様だ。
浦和に来て間もない頃は、走っている功治を見ていられるだけで幸せだったはずだ。それが、復帰して調子が上がってくると、本人はもちろんの事、私までも「欲」が出てきてしまっていた。
「もっと出来る、もっとやれる」
それはこの世界にいる以上、必然的な事なのかもしれない。それでもあの時の、再びピッチに立てた時の喜びを忘れてはならなかったのだ。
空は見ていたのだろうか?だから日々精進し、人一倍努力した彼に、酷とも思われる同じ試練を再び与えたのか?
もう1日も同じベッドから起き上がる事が出来ない自分の心の脆さの中で、必死にこんな事をとりとめもなく考えていた。
そんな私とは裏腹にテレビゲームに夢中になっている功治。「落ち込まないの?」と聞いても「落ち込んだってしょうがないじゃん。なっちまったものはやるしかないだろ。」と、決まって同じ答えが返ってくる。
思い起こしてみればちょうど2年前、夫から同じ台詞を聞いた事があった。その時に私は「なんて精神力の強い人なんだろう。この人だったら絶対にまた復帰できる!」そう思っていたではないか。2度目とは言えどもあの時と何ら変わることのないすさまじい精神力と運を、何故信じてあげられないのだろう。
決して後ろを振り向く事をしない夫の、いつもと同じ様に坦々と生活をする姿に、ようやく一筋のヒカリを見出せたような、そんな気がした。
「悩んだって、何かが変わる訳じゃないのよ」
母の言葉をもう1度自分の胸で繰り返した。真っ赤に腫れ上がった顔から乱暴に涙を拭い去り、ようやくベッドから起き上がった。
功治が自分を心配し、買ってきてくれたお弁当は、お世辞にも美味しいと言えたものではなかったが、1日ぶりの食事に気がつくと、インスタントのお味噌汁まですっかり飲み干してしまっていた。9月19日の出来事である。
●手術
2004年9月27日
いよいよ手術の日の朝を迎えた。つい数週間前までの私には、27歳の幕開けをまさか病院で過ごすことになるとは思いもよらなかったことだ。しかしながら今は、この人と結婚した以上、この先も突発的にこういう場所へ足を運ぶ事があるのだろうなと、自分が置かれている立場を冷静に見つめられる余裕も出てきている。これが何日か前までこの世の果てかと思う程落ち込んだ人間とは到底思えない。自分にもやっと耐性がついたのだろうと思いつつも、実際は、ただ単に流れていく時間に1人置いていかれないよう、また自身の存在が夫の妨げにならぬよう、無意識に体が反応しているだけなのかもしれない。
手術に立ちあうのは今回で3度目になる。1度目はちょうど2年前の右膝の前十字靭帯断裂と内側の半月板の損傷、2度目は、浦和に移籍してきてから6月に再び右膝の半月板の損傷、そして今日、左膝前十字靭帯の再建手術に臨む。
手術も3度目にもなると、側近で見ている私にも恐怖は無い。術後の経過からリハビリ復帰までの大まかな流れをつかんでいるからである。しかし、例え経過が順調だとしても、靭帯断裂の怪我からの復帰には約1年かかり、パフォーマンスを取り戻すのにも膨大な時間を要する事もある。そこに至るまでのいくつかのプロセスを知るがゆえ、私自身「怪我をした」という事実へのショックよりも「やっとパフォーマンスを取り戻しかけていたのに、また1からやり直し」という絶望感の方が強かったのは隠しようの無い事実である。
夫曰く「裏を返せば怪我をしてもあそこまでのパフォーマンスは取り戻せた訳だから。それを少なからずともプレーで証明出来たのだから、今度も大丈夫だ。」と言い放つ。夫の精神状態は常に高いところにあり、ついていくのに必死だ。
そんな夫でも、手術前はさすがに緊張の色を隠せない。横たわっているベッドへカメラを向けると、いつもの様に決まってピースをしてくれたが、どことなく弱々しい。顔も白く強張っているようにも見える。
やがて、時計の針は約束の9時30分を示し、看護婦さん達がやって来た。
「一緒にいかれますか?」との問いかけに「ここで待っています。」と応えた。
これから始まろうとしている手術が、貴方の真の意味での「始まり」でありますように。
そう祈りながら、夫を病室から送り出した。
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「もう少ししたら戻りますから」
慌ただしくドアを開けながら看護婦さん達が戻ってきた。時刻は13時5分。所要時間は約3時間半というところか。2年前、札幌の整形外科で受けた右膝前十字靭帯再建手術よりも、3、40分程早いようだ。あの時は内側の半月板も損傷していて、予定終了時刻より2時間もオーバーするという異例の大手術だった。
私はというと、側近の人の初めての手術という事に付け加え、予定時刻が過ぎても終わらない手術に「何かあったのでは?」と大きく動揺していた事が未だ記憶に新しい。
手術は無事終了し、予想されていた半月板の損傷も比較的小さなものであり、骨の表面を軽く削った程度とドクターから説明を受け、ほっと胸をなで下ろした。
酸素ボンベをつけた夫だが、かろうじて意識があった。全身麻酔は完全に抜け切れるまで、例え意識が戻っていても、話した言葉を覚えていないという特性がある。うっすらと開いた目に「終わったよ」と声をかけると、ニコッと笑顔を見せ、以前の手術後とは大きく違った様子を見せた。手術にも「慣れ」があるのだろうか、それとも麻酔に対して免疫が出来たという事なのか。いずれにしてもあまりの変わりようにこちらが驚いた程だ。
15時になった頃には意識もかなりはっきりしていた。痛みも以前に比べて少ない事に、夫自身も驚いていた。熱も38、39度を予想していたが、37度5分と低い状態が続いていた。
先生のチェックが16時に入り、ようやく水から飲み物を口にする事が出来るように。本来であれば手術日は夕食を摂る事が不可能だが「お腹空いた」を連発する功治に、先生が特別に「消化の良いパン1個なら」と食事を許可してくれた。
昨年、右膝の半月板の手術をした時には、病院の目の前に、確かスーパーがあった。昔ながらの生協に近い食品店で、規模は小さかったが大いに活用させて貰っていた。しかし今は、その姿は無く、代わりに薬屋さんが建っている。のぞいてみると、野菜や魚等の生鮮食品は取り扱ってはいなかったが、パンやヨーグルトなんかが置いてあった。そこから夫が好きな「北海道チーズ蒸しパン」をチョイスし、急ぎ足で病院へ戻った。
面会時間の最終時刻は20時だが、手術日という事で、特別に21時までの許可を貰った。足の痛みも次第に増し、熱も多少上がってきた為、氷枕を貰った。
傷が痛むのか、夫の顔に歪みが出るようになる。しかし、痛み止めの注射も決められた時間をあけないとうっては貰えない。こうなると見ているこちら側も辛い。
迎えた21時。容態が気になるところだが、面会時間は守らなければならない。看護婦さん達に挨拶をし、病院を後にした。
「明日は元気な功治が見られるのだろうか」
帰り道のタクシーの中で、窓に反射されたイルミネーションの揺らぎを見つめていた。
こうして12時間に及ぶ、長い長い病院での1日が終わった。
●激動
2004年9月28日
手術から一夜明け、再び川口工業総合病院へ向かった。朝のメールで功治から「痛くて眠れなかった」とひと言だけ入っているのを見た時、昨夜の帰り際の不安気な顔が鮮明に思い出され「やっぱり」という思いでいたが、行ってみると思いの外元気な夫に会う事が出来た。多少顔に疲れは残っているものの、表情は柔らかく、出された食事も残さずしっかり食べている。
食事が終わると早速先生がやってきて、リハビリの流れを説明し始めた。札幌の整形外科では術後1週間は膝を固定し、動かすことすら許可されていなかったが、川口工業総合病院では何と、術後1日目から特殊な機械を使って膝を動かすリハビリを始める。病院によって、リハビリのやり方が大きく異なってくるものなのだろうか。こちらの不安を他所に功治は膝を動かす事ができ、とても嬉しそうだ。
午後過ぎになり、夫の容態が急変した。急激な痛みを訴え始め、顔から笑顔が消えた。普段は弱音を吐くことをしない人だが「痛い、痛い」と顔を歪ませ、脂汗のようなものも滲み出ている。どうやら午前中のリハビリで、膝の曲げ伸ばしを無理をしてやり過ぎてしまったようだ。しだいに熱も上がり、午後のリハビリを急遽キャンセル。苦しむ夫をベッドの上に寝かせ、急いで看護婦さんを呼んだ。
やはり、術後は順調だからといって容態を甘くみるとこうなってしまう。ましてや本人はリハビリをやりたくてたまらないのだから、多少の痛みがあろうとそれを周囲に漏らす訳が無い。
私はトレーナーの方に「痛くても痛くないと言う人なので、勝手に1人でどんどんやらないよう上手く誤魔化し、セーブしてあげてください」と話した。痛み止めの座薬を挿したが痛みは増すばかり。一向に良くならない。
看護婦さんに「私はこれで帰ります。痛がっているので申し訳ないのですが、後は宜しくお願いします」と挨拶すると、看護婦さんも「すべき事はしたので痛がってももう何もしてあげられない」といった困惑した表情で「わかりました」と返してくれた。
(帰宅後)
浦和レッズ専属栄養士である川端理香先生からの指示を受け、復帰に向けて全力で取り組んでいく。トータルは2800キロカロリーに抑える。
◎痛みや腫れにビタミンC、ビタミンA、ビタミンE食材を摂取。(細胞を修復し炎症を抑える効果が)ビタミンB6も吸収には必要。
◎患部に負荷がかかる、消費カロリーが格段に落ちるためウエイトが増えないよう簡易的にできることとして炭水化物は普段の1/2までカット。
◎靭帯の成分はアミノ酸。食事でたんぱく質を含むものを1、2品追加することが必要。病院によって設定栄養価が違うので、病院食を必ずチェックすること。コラーゲンスープ+C要素を特に意識
◎病院食に追加していく食材:プロセスチーズ、低脂肪ヨーグルト、ミニトマト、焼き魚、味噌汁の具材を臨機応変に(主に緑黄色野菜を追加)茶碗蒸し、温泉卵、いちご、オレンジ、グレープフルーツ、アスパラ、ささみ、もやし、玉ねぎ、にんにく、納豆、冷奴、わかめ、ねぎ、あさり、青梗菜、ゴボウなどの食物繊維バランスの良いもの
◎痛みで食べられない場合は、ヨーグルトやフルーツ(紫ブドウ、梨、キウイ、ルビーグレープフルーツ)を冷蔵庫に。
◎骨付き肉を何時間か大量にしっかり煮込む。ニンニクや生姜を一緒に。それを一回分ずつ冷凍。密封チャックに入れて「日付と鶏ダシ」と袋に記入しておくと便利。 熱いので冷ましていれること。タンパク源をチキンや魚介類、卵などにして、あとは緑黄色野菜をふんだんにいれる。消化もよく栄養満点。肉は鶏が一番手に入りやすくスープに癖がない。 豚(豚足や耳含む)牛すじ、牛テール、フカヒレも◎。雑炊や煮物、カレーや味噌汁、あらゆる料理に毎食とり入れ摂取。
◎炎症や患部の痛みを助長する肉の脂身、脂質は徹底的にカット。グレープシードオイル、アーモンドオイルを新たにストック。ナッツや青背の魚など、抗炎症作用のあるオメガ3脂肪酸は積極的に。
◎ネバネバ食品は関節ケアのコンドロイチン、グルコサミンが豊富。積極的に摂取。
どこで何が必要となるか解らない。私は夫が2年前の2002年に、右膝前十字靭帯断裂の再建手術をした際、当時コンサドーレの専属栄養士であったザバスの大前さんにお願いして作って貰ったプリントを思い出した。確かに川端先生がおっしゃるように、病院食は一般の方向けに作られており、アスリートのための靭帯の回復メニューとまでは至らない。2年前も今回と同様、病院食にビタミンC、たんぱく質を主とする食品を、1、2品毎食付け足していた記憶がある。
かなりボロボロではあるが、これが2002年の病院食。
ザバスの方のアドバイスを基に、病院食に私の汚い字で付け足すメニューが記載されている。脂質をカットしたり、糖質を抑え、置き換え食材を用いたり。このように付け足されているものは非常に簡単なものであるが、これが1、2週となると経過がかなり違ってくるというのだから侮れない。
●魔法のスープ
2004年9月29日
午前中から、良質な食材を取り揃えている浦和伊勢丹地下の食品売り場へと向かった。ここで、スープに必要な食材や、病院で付け足す食品等を購入し、足早に帰宅した。夫に電話を入れ「今日はいけない」と伝えた。容態を聞いてみると「朝、膝に溜まった血を抜いて貰ったら、一気に熱が下がり気分も良くなった」との事だった。本来あるべきものでないものが体に溜まっていたのだから、具合が悪くなるのも当然か。
大量の骨つき肉を水を足しながらコトコト煮込むこと8時間。部屋中に、何とも言えない肉の香りが広がっている。愛犬も匂いにつられ、台所に集合してきた。残ったスープはジップロックに小分けして冷凍。きっと、魔法のスープになってくれるはずだ。
●原点
2004年10月2日
ここに来る途中、花屋に寄り道することがささやかな幸せになっている。いつも凛とした美しい花に触れると、心が隅々まで透き通るからだ。
しかし、どんなに手を尽くしてもこの花はやがて枯れてしまう。蛍やセミが僅かな時間しか生きていられないように、この世に生を受けたものは必ず死んでしまう時が来る。生きている時間はたくさんあるようにみえて、いつ終わってしまうかなど誰にも解り知れぬことだ。だからこそ私は、与えられた人生に後悔をしたくないと、この環境下からか強烈に思い始めた。
この日は日曜で、本来リハビリ室は開いていない。しかし夫の事だ。きっちり休み前にトレーナーの方からリハビリ室の鍵を貰っていた。私は夫と共に、誰も居ないリハビリ室へと向かった。
静まり返った殺風景な部屋で、つま先立ちでバランスを取る練習をしている。リハビリ時、夫の手に松葉杖はもう無い。まだ多少ふらつきはあるものの、術後から1週目の人間とはとても思えない。今度は支え無しで、ライン上を真っ直ぐ歩く練習だ。見られている事を意識してか、夫の顔が時より綻ぶ。「見ろ、もう歩けるんだぞ」とでも言わんばかりの顔つきだ。
この日の夜、夫が話してくれた。世界記録を達成したイチロー選手がテレビのインタビューでこんなことを言っていたそうだ。
「記録の事を考えると、野球が好きだという気持ちが半減してしまう。だから記録の事は考えないようにしている。なぜなら僕は、野球が好きだからピッチに立っているのだから」と。
「それを聞いた時、自分も同じ考えだと思った。結果より何より、俺はサッカーが好きだからいつもピッチに立ちたいと思っている。原点はいつもそこにあるのだからね」
●光
2004年10月6日
夫の普段の生活が、両松葉から片松葉に進歩した。術後1日目に、この特殊な機械によって膝の痛みから逃れられなくなったことなど、すっかり脳裏から消えている。何事も、過ぎてしまえば何と短いことだろう。
この機械を使って、毎日自動的に膝の曲げ伸ばしを1時間行っている。角度は以前の90度から120度まで曲げられるようになった。
私は、何日も太陽に当たっていない夫を、病院の屋上へと誘い出した。
眩しいくらい光を体一杯に浴びて、気持ち良さそうに屋上内を散歩している。
全てはここから始まる。今、ここから。
●台風
2004年10月9日
台風22号が関東全域に猛威を振るっている。私は、今日の晩御飯に付け足す焼き魚が雨に濡れないよう、タオルで二重巻きに包んで足早にタクシーへ乗り込んだ。功治のお母さんが、北海道から新鮮な魚を大量に送ってきてくれた。その内の1匹の焼いたばかりの鮭の香りが、湿度の高さもあって、潤いを増しながら車内に広がっている。お昼ご飯を済ませていない私には少々きつい香りだ。抱えた二重のタオルに目をおろし思わず唾をゴクリと飲み込んだ。
病院へ到着すると院内は閑散としていた。まだ昼だと言うのに売店も閉まっている。功治に聞くと、台風でみんな「早退」したとの事。勿論、リハビリの先生方も「早退」し、午後のリハビリは各自部屋で行うとの指示で、病室にはリハビリに使うと思われる道具が散乱していた。
「この台は何をするものなの?」と質問すると、まるで何かを思い出したかのようにリハビリに取り掛かった。
このバランスボードを使ったリハビリは、簡単そうに見えるが、実は大変難しい。私もやってみたが、床につかずに立っていられる時間は僅か1、2秒程だ。ましてや怪我をしている人がこれをやるのは容易ではない。それでも功治は上手くバランスを取りながら10秒近く立っていられるのだから感心してしまう。両足が終わると、今度は片足ずつ台の上に乗せて、体のバランス感覚を養っていた。リハビリ後の体重測定では72.5キログラムを示し、大幅に増という事もなくまずまずといったところだ。
その後、仁賀先生がやってきて膝の腫れ具合を診察。膝に溜まった血を抜いて貰った。手術後は、この、血が溜まっては抜き、溜まっては抜きをしばらくの間繰り返す。やがて内出血が治まってくると、膝も腫れなくなってくるというわけだ。
上の写真は、血を抜いた直後の写真だ。血がにじんでいるところから、注射器で血を抜いている。向かって左下の大きい絆創膏が、手術の切り口であり、真ん中の瘡蓋部分は内視鏡の跡である。
2年前と全く同様の手術が行われており、今現在、彼の両膝には2本のボルトが入っていることになる。レントゲン写真にそのボルトの影を見た時には、解っていながらも驚いたものだ。
やがて台風は勢力を増し、さすがに身の危険を感じ、いつもより3時間早く帰宅した。
●笑顔
10月10日
スープを持参した。今日の具材は、にんにくの芽、アスパラ、トマト、アサリ、タラ、わたり蟹、マカロニ、ナッツ、チーズ等の、高タンパク、低カロリーの食材をふんだんに使ったスープだ。美味しそうに味わって食べ、おかわりをしていた。久しぶりに見る夫の笑顔だった。
ここまで。
次回京都新聞アス飯料理動画は、リハビリ回復食に毎食摂取していたスープを簡易化してアレンジ。是非ご活用ください。